ひできのブログ

基本的には自分語りです

僕は猫である。名前はどこかに置いてきた。

時々誰かの部屋に入れてもらうことはあるけど、飼い猫ではない。

 

「ほら、早くおいで。誰かに見られたら怒られちゃう」

 

彼女は大きな扉をなんなく開け、僕はその隙間から部屋に入った。彼女はソファに座り、僕は彼女の膝に座る。布越しに伝わる暖かさが、冷えた体に心地よい。今日も彼女からは良い匂いがする。どこかで、何度か、嗅いだことのあるような、あの甘い匂い。僕はその匂いが嫌いではなかった。

その日、彼女は僕を抱きしめて言った。

「ごめんね」

僕は賢い猫だから、彼女が何を言っているのかがなんとなく分かった。

坂の上の空き地の木にピンク色の花が咲くと、いつも誰かがいなくなる。だから、あれは多分、お別れの言葉だ。

僕の思った通り、それから彼女の姿を見かけることは無くなった。

餌はおばちゃんがくれるし、通りすがりの大学生はいつも構ってくれる。でも、やっぱり何か物足りなかった。

「あれ?にゃん次郎、こんなところまで来たの?珍しいね」

「遠出かな?」

「気を付けてね~」

ある日の夕暮れ時。住宅街を歩いていると、急に彼女の匂いがした。

僕は匂いのする方へ向かって走った。でも彼女はいなくて、匂いだけが漂い続けていた。まるで街がこの香りを纏っているみたいに思えた。もしかして、彼女は街になってしまったのだろうか。いや、そんな筈は無いよな。でもこの匂いは、間違いなく彼女の匂いだ。

匂いのする方へ向かって歩くと、一本の木が立っていた。匂いの正体は彼女じゃなくて、オレンジ色の花だった。

木に近づいて、花の香りを嗅いでみる。ああ。懐かしい香りがする。もしかして、彼女は花の妖精だったのかな。だから急に消えていなくなっちゃったのかな。

きっともう彼女には会えないのだろう。もうあの暖かい膝に座ることはできないのだろう。あの優しい声で名前を呼んではもらえないのだろう。そう思ったけど、でも・・・でも、ここに居れば、あの穏やかな匂いに包まれていられる。

目を閉じると、本当にそこに彼女がいるように思えた。そうだ、今日はこの木の下で眠ろう。そうすれば、夢で彼女に会えるような気がするから。

 

ヒグラシの声がだんだん遠ざかって、僕は永遠に彼女の猫になった。